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司馬遼太郎の「関ヶ原」を読んでいる途中

小説

歴史小説にネタバレなし

読んでいる途中で感想だったり評価をするのはどうかと思うが、こと歴史小説に関しては結末が分かっており、いわばネタバレ状態なので全く問題はなかろう。もちろん、その時代やその舞台で起こったことを知らない場合もあるだろうが、この「関ヶ原」に関しては東軍の「徳川」と西軍の「三成」のどちらが勝ったか、日本人なら知らない人はいないだろう。

いや、じゃあ推理小説の類じゃ、読んでいる途中の感想がダメかというと、それも十分にアリだろう。犯人や結末の予想を書いておいて、後から見るのも面白そうだし。それに、もし予想が合っているなら気持ちいいだろうし、合っていないならきっと「どんでん返し」になったりしてるはずで、それはそれで読み応えありだろう。

しかも、私の場合この「関ヶ原」は既に一度読了済なのだ。ただし、読んだのはもう20年ほど前だったはずで、ぶっちゃけ「ああ、こんな言い回ししてたな。」とか「そうそう、こいつ結局裏切るんだよな。」みたいなことは全くなく、一ミリも既視感は無かった。これは歳のせいなのか、私のせいなのか。

ただ、これが映像作品だったら「これ、見たことある。」なんていう既視感はあったのかもしれない。そもそも既視感という言葉はあっても、既聴感とか既臭感という言葉がないように、視覚というのは情報量があまりに膨大なため特別な感覚であって、巨大な情報が一致したという奇跡によって起こされる(これ、見たことある。)といった感情が湧く、唯一の感覚なのかもしれない。

関係ないが一方で味覚と言うのはかなりいいかげんで、「あっ、これ食べたことある。えっと、なんやっけ、食べたことあるけど…」と最後まで(食べたことあるのに、それが何かが分からない)ことが多い。いや、私だけだろうか。ちなみに、古米も古古米も古古古米も同じ味しかしない。幸せな人間だ。

三成と家康が好きになれない

話を戻す。「関ヶ原」は上中下の三巻で、今はちょうど下巻の読み始めで、まだ関ケ原の合戦は始まっていない。だからなのかもしれないが、何かこう盛り上がりに欠けるというか、熱く込み上げてくるものがない。若しくは、W主演である石田三成と徳川家康の人物に魅力がないからなのかもしれない。

その魅力がないというのは、神経質な三成とウラのある家康という人となりもあるが、その「見た目」によるものが大きい。人は見た目が10割(9割?)なんて言うが、まさにそれ。小説などを読んでいて人物像を形成するときに、どうしてもそのビジュアルからスタートするが、その「見た目」はまるでキャストするかのように芸能人などに当てはめるか、又は既に知っている「見た目」になる。

それがこの二人の場合、私は【三成=まんが「へうげもの」の眉なし眠そう三成】、【家康=教科書に出てた太っちょの狸】というビジュアルだからか、どうしても好きになれない。やっぱり、その人物の中身は顔(見た目)に現れるのだ。バッハはいかにもバッハだし、モーツァルトはモーツァルトなのだ。あれが逆だったらどうだろう。そんなこと有り得ないのは誰でも分かる。

何か物足りない

それはさておき、話の書き方も散漫な感じがする。寄り道や脱線は司馬遼太郎そのものではあるが、あくまで中心は一人だったり二人のはずで、他の司馬作品では「坂本竜馬」や「長曾我部元親」であったり「項羽と劉邦」であることがはっきりと分かるところ、この「関ヶ原」ではどうも三成と家康なのかどうかが判然としない。

というのは私だけが感じているのかもしれないし、それは繰り返すが二人の魅力(私の感じ方)が足りないからなのかもしれない。ただ、主人公以外の人物の挿話や逸話が、主人公の物語を形作る話ではなく、ただその人の話としてそこに書かれている(もちろん、興味ある面白い話ではあるが)だけに感じたことが何度があった。

とはいえ、資料としても読みものとしても一級品の小説であるし、やはり読ませるのはうまい。下巻を残しての採点は70点。少し厳しめの評価と採点だが、司馬遼太郎が好きなだけに、この点数としておく。読了の際には、続きを書くつもりである。

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