司馬遼太郎「夏草の賦」(なつくさのふ)を読んだ
2回目の読了
司馬遼太郎の作による「夏草の賦」を読了したが、これが2回目になる。1回目は司馬遼太郎を読み漁っていた、もう20年以上も前の話である。その時、最も強くに心に残ったのは、これはまさに「井の中の蛙、大海を知らず」というやつだなという印象で、主役である長宗我部元親が「徒労に終わって可哀想」という感想だった。
(あらすじ)
中央で織田信長が勢力を拡大しつつある戦国時代、僻地である「土佐」の長宗我部元親は、隣国を次々と侵略し四国をほぼ統一する。信長は本能寺の変で倒れるも羽柴(豊臣)秀吉が後継者となって四国に大軍を送り込み、負けた長宗我部元親は領地を召し上げられ「土佐」一国だけを許される。
領民から慕われ能力も秀でる嫡男信親に期待するも、秀吉から命じられた九州征伐の際に討ち死にしてしまう。さらに妻にも先立たれ元親は生きる気力を失ってしまう。元親が亡くなり家督を継いだ盛親は、関ケ原の戦いで西軍に与したが戦わずして帰国、その後領国を没収される。大阪の陣に加わるも敗北して処刑され、長宗我部家は滅亡した。
私はそもそも小説は深く考えながら読むよりはサラッと読む方で、例えば推理小説なども「犯人探し」や「トリックを暴いたり」をしながら読むことはない。また、小説のなかでの矛盾や不合理もほとんど気にしない。ということもあってか、最初に読んだ時の感想と2回目の感じ方が違うことが多い。
では、この「夏草の賦」の2回目がどうだったかというと、やはり自我の力の差が分からず、天下を夢見るも無惨に散った長宗我部元親の一生は何だったのかと空しくなった。しかし、可哀想というよりは「生まれた場所が悪かった」という運の悪さの方が印象に残った。
僻地に生まれた悲運
本作中の元親も言及しているように「生まれた場所が悪かった。信長の場所に生まれていれば」というのは、確かにそうかもしれない。しかし、それを言うなら薩摩の島津も奥州の伊達も同じことで、「俺たちも畿内や尾張に生まれていれば」と言いたくなるだろうし、そもそも元親も島津も伊達も、百姓の子に生まれておれば天下統一どころか一国さえ治めることはできない。
それに元親が羨んだ信長も、天下統一を目前に謀反に遭い自害しているから、結果的には運が悪かったとも言えなくもない。しかし、信長は果てる前に無念ではあったろうが「人生が無駄だった」とは思わなかっただろう。では元親と信長に何の違いがあったかというと、やはり「知ってしまった」という不運だろう。
元親が四国統一を目前に病に倒れ死んでしまっていたら、やはり無念ではあってもそれまでの戦が徒労だとは思わなかっただろう。「井の中の蛙」は大海を知らないままの方が良かったのだ。「マトリックス」などもそうだが「知らない方が幸せだった」という普遍的なテーマである。
こうなるともうSFの話になるが、SFついでに「もし自分が長宗我部元親に生まれ変わったらどうするか」を考えてみると、「どうせ四国を平定できても、信長や秀吉に負けてしまう。」として土佐一国あたりで中央に降るか、とりあえず四国統一までは頑張ってみるか、難しいところである。
評価と感想
やっぱり司馬遼太郎の小説は面白い。この上下巻もあっと言う間に読んだ。昔読んだ印象よりは、氏が想像して書いたであろう人物の会話や描写が多く、ただそれこそが「小説」としての出来の良さであるとの再認識をすることもできた。
また、主要人物である正室「菜々」については史料に乏しく、どのような女性であったかは不明ということらしい。それでもこれだけの挿話や元親とのやり取りであったり、「菜々」から元親への影響を書けるのは、膨大な資料を読み込んでこそのものなのだろう。
それを思うと、長宗我部元親の人物像「実は臆病」というあたりも史料から推察した司馬遼太郎の見解であって、実はどうだったかも分からないのだが説得力はあるし読み物としても面白い。歴史など結局は想像でしかない部分がほとんどであるが、それが納得できて表現が上手い、これが良い歴史小説なのだろう。
その第一人者であり私も大好きな司馬遼太郎、その作品は「外れなし」と言われるがそのとおりで、その中でもこの「夏草の賦」は題材の良さも手伝ってかなりの良作だと思う。テーマも「生きがいとは何か」という分かりやすいものであり、それが儚くもありまた愉快でもあるのは、「菜々」という登場人物のおかげだろう。
司馬遼太郎の作品のなかでも、私はいつも上位にあげるくらい好きな作品である。採点は92点。

