デビュー作「本命」
競馬好きでミステリや冒険小説を読む私が、ディック・フランシスに出会ったのは30歳を過ぎた頃だったと思う。その入り口は競馬ではなくミステリのほうからで、競馬を扱った海外のミステリシリーズがあり、それがまた面白いというのをどこかで聞いて、ならばとそこまで期待せずに読んだのが始まりだった。
海外のミステリはそれほど読んでおらず、アガサ・クリスティのをいくつかと、古典と言われるような名作をいくつか、そしてハードボイルド小説の有名どころ(「長いお別れ」とか)を何冊か読んだ程度であった。名作や有名どころということもあって読み応えのあるものばかりだったが、心をえぐるようなう逸品には出会えていなかった。
最初に読んだのはディック・フランシスのデビュー作である「本命」である。いやあ、流石に面白かった。ミステリとしてもだが、元一流にしてスター騎手だった作者の描くレースシーンなどの迫力と臨場感は素晴らしい。競馬好きな私は競馬のシーンというだけでワクワクするし、場面がリアルに思い浮かぶ。
こんな作品を騎手を引退してわずか5年後に発表できるのは驚異的で、騎手としてそして作家として天から二物を与えられた稀有な人物だったのだろう。ここで、ディック・フランシスの簡単な経歴について触れてみよう。
華麗なる経歴
1920年、イギリス・ウェールズで生まれたディック・フランシスは、騎手であった祖父と父と同じ騎手を目指していた。7歳の頃から乗馬学校で馬に乗り始めて、16歳頃から厩舎への所属を目指すもうまくいかなかった。第二次世界大戦が始まるとイギリス空軍に入り、従軍する。整備士を経てパイロットへ転属し、戦闘機や爆撃機に搭乗した。
1946年に除隊となった後、ジョージ・オウイン調教師の秘書兼アマチュア障害騎手となって9勝し、その後28歳にしてプロ騎手となる。フランシスは元は小柄で平地競走の騎手になれるはずだったが、成長期に背が伸びたことから障害騎手となったという。
1953年から54年にかけてのシーズンにおいて、イギリスの障害競走のリーディングジョッキーとなる。また1953年から57年には、クイーンマザー(エリザベス王太后)の専属騎手を務め、平地競走のゴードン・リチャーズと並ぶイギリスのスター騎手だった。
騎手を引退した後は競馬欄担当の新聞記者を経て作家となり、英国推理作家協会賞(CWA賞)やアメリカ探偵作家クラブ賞のエドガー賞(長編賞)などを受賞する人気作家として活躍し、英国推理作家協会の会長も務めた。騎手として作家としてともに頂点を極めた華麗なる経歴である。なお、2010年にこの世を去り故人となった
最高だった「興奮」
「本命」を読んで、ディック・フランシスがいっぺんに好きになった。続いて次作の「度胸」を読もうかと思ったが、傑作と誉れの高い3作目「興奮」を読んだ。なお、題名が「本命」「度胸」「興奮」と漢字2文字で統一しているのは「競馬シリーズ」の特徴で、原題も Dead Cert (本命)、 Nerve (度胸)、 For Kicks (興奮)、Odds Against(大穴)と簡潔な短い単語で構成されている。
「ホワイトアウト」の真保裕一も、初期の作品は「連鎖」「取引」「震源」などと題名が漢字2文字だったのは、このディック・フランシスの競馬シリーズを意識したものということだ。さて、その「興奮」を読んだ時はしばらくはその余韻でボーっとするくらい、興奮し感動し満ち足りた気分になった。
キャラクター、ストーリーのスリリングさとスピード感、トリック、そして読後感、言う事なし。掛け値なしにそれまで読んだ小説でベストだった。ストーリーもトリックもいいが、何より主人公ダニエル・ロークがかっこいい。「幸せだと思いつつも平凡な生活から逃れたい」という彼の気持ちを自分にも重ね、「行け!」と心の中で叫びたくなる。
それは、話の中の彼にもかけたい言葉であるし、それは自分にだってかけたい言葉でもある。そして、最後の「彼はダイヤルを回して、私の人生を変えた。」のなんと気持ちのよいことか。これだけ読後感の素晴らしい小説もそうそうない。最高だった。続けて2作目の「度胸」を読んだが、これもかなりの良作だった。
シッド・ハレー3部作
デビューからの3作「本命」「度胸」「興奮」だけで作家としての地位を確立したディック・フランシス、私もこの3作を読んだだけで最も好きな海外ミステリ作家になったのだが、次に読んだ4作目の「大穴」はもっと良かった。単体では「興奮」がベストだと思うが、「大穴」「利腕」「敵手」のシッド・ハレ―が登場人物では断トツの1位である。
もとチャンピオンジョッキーだったが落馬により片手を失い、探偵となったシッド・ハレ―。失意のうちに騎手を引退し生きる気力を失った男が立ち直るストーリーだが、強い自分を取り戻して希望に燃えて進むというのではなく、敵の脅迫に怯え内面の恐怖と戦いつつ自分を取り戻していく姿にはしびれてしまう。
強い信念を持ち敵に戦っていくヒーローもかっこいいが、自分の弱さや恐怖心と戦い、迷いながらも立ち向かっていくシッド・ハレ―こそ真のヒーローだと思う。一時期は好きでたまらなく、ダビスタで「これは!」と思う馬には必ず「シッドハレー」とつけていた。
「競馬シリーズ」ということでかえって敬遠している人もいるかもしれないが、まずは一度読んでみてほしい。まずは「興奮」か「大穴」を読んでほしい。読めばわかります。


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